広尾駅1番線ホーム
話は10月に遡る。
その日はオリオン座流星群がピークを迎えるそんな夜。もしかしたら着信音が鳴るかもしれないスマホの感触をポケットに確かめながら、河原で一瞬の天体ショーを待っていた。
10分。15分。
変化はない。動いたと思ったものは飛行機。もしくはヘリコプター。期待させないでほしい。
20分。粘ったけれど、ここまで。ウェザーニュースによるとその日は観測の大チャンスだったらしい。でも残念ながら見ることができなかった。携帯も鳴らず。10%の電池残量。
帰路に着く道すがら、「今僕が河原から去ったその瞬間に星が流れてるんだろうな」と考えていた。
自分が見られなかったことは運命的に仕組まれたのではないか。
そんなことを少しでも感じてしまった自分に、恥ずかしさを感じた。
この間23時くらいにコンビニに立ち寄ったら、自分を除く客がみんなカップルだったことがあった。なんかみんな幸せそうだなと感じた。
でもなんでそれが幸せな光景と捉えられるのだろうと思考を巡らす。
もしこの光景が誰にでも、人類万人にとって普遍的なものであったら特別な、幸せなものではなくなる。極論当たり前じゃん、何言ってんだよという話になる。
つまり異なる境遇である自分がそこに存在するからこそ、即ち劣悪な例外がいるからこそ優良たる周囲が幸せ、恵まれていると定義されうるのだと。(何が誰にとって幸せか不幸せかという議論は一旦置いておいて。)
自分をもっと磨きなさい、もっと行動しなさいということを気づかせるために仕組まれたイベントなのかなと解釈して手に取るぶどうジュース。
「自分を買い被りすぎ。悲劇のヒロイン面?」
刹那、またやってしまったと恥ずかしくなりそそくさと138円を払って店を出る。
とまぁ自分の置かれている境遇とか、行動が何か大きな意味を含んでいたり、近い未来に影響をもたらすのではないかと妄想に耽ってしまうことがある。
そして意外とそれは自分だけじゃないとも思っている。
例えばこないだのサッカーW杯。Abemaの素晴らしい計らいもあって個人的に今までで1番面白い、印象に残ったものだった。
日本代表、お疲れ様でした。「アサノ」違いで4年後招集されてもいいようにしておきます。
そんな日本代表戦の日、SNSで「私が見ないと日本代表は勝っているので今日も見ません」とか、「見たら負けてしまう気がする」なんていう書き込みを見た。
それを見て、同類だ。って思ってしまった。
「そんなことが勝敗の要素になるわけないじゃん」って思う人もいるかもしれない。でも「Aさんが試合を見ず、日本が勝った」という現実に対して、「Aさんが試合を見て日本が勝った」という世界線を見ることはできない。
ワームホールを使ってパラレルワールドでその世界線が実現されていた場合どうなっていたか、誰か教えてほしい。
自分自身が自分にとって運命の神様、女神でありたいと思う人はきっと少なからずいると思う。自分の行き先くらい自分の行動に、言霊に結びついていてほしい。そしてその行き先が幸せな場所であってほしい。そう信じないと進めない。
ただ実際にそんなことを口に出すと、やっぱり恥ずかしいから、痛々しいから。多分それだけ。どうかそうであってほしい。
願望多いな。
昨年のクリスマスはしっかり仕事をしていました。六本木で乗り降りする人の多さに驚きつつ電車に揺られ、「20cmくらいいずれ報われるだろ、そうじゃないとやってけない」と思っていた。
"いいこと"の単位を長さで表現するのはいかがなものか、ブログで書けるかなと思いながら迎えた年末。
急に友人からのLINE通知で街へ繰り出しそのまま12/31の23時、初詣をしようとごった返す浅草寺。
何気なく空を見た瞬間、一瞬「ツー」っと光の線が伸びる。
ドラマみたいだなと思った。20cmどころじゃなく1kmくらい報われた気がした。
今日は成人の日なんですね。
ということはこのブログもまた1年重ね、続けてこれたということ。
今年も自分なりのペースでゆっくり書いていくので見守ってもらえると嬉しいです。
今年もよろしくね〜
ドラム アサノ